『沈黙の艦隊』竹上首相の名セリフ「理想を持たぬ者は政治家ではない!」――吉田松陰とカントに通じる“理想から現実を変える”思想

悟った人のアニメ解析録

僕は最近、『沈黙の艦隊』を全巻、Yahoo!フリマで購入した。

なぜ今、この作品を読もうと思ったのか。

きっかけは、日本の安全保障について考えるようになったことだった。

軍事力を強くすることで、相手に、

「もし攻撃してきたら、こちらもやり返す」

と思わせる。

これが、いわゆる軍事的な抑止力だ。

しかし、ここには一つの難しい問題がある。

こちらは、

「戦争をしたいわけではない。自分たちを守るために軍事力を強くしているだけだ」

と思っている。

ところが相手国から見れば、

「あの国は軍事力を強くしている。自分たちを攻撃するつもりなのではないか?」

と見える。

そこで相手国も軍事力を強くする。

すると、こちらもさらに不安になり、もっと軍事力を強くする。

自分を守るための行動が、相手の恐怖を生み、結果として双方がさらに軍備を強くしてしまう。

これを国際政治では、

「安全保障のジレンマ」

と呼ぶ。

僕は、この構造を考えているうちに、

「そもそも人間は、なぜこういう対立構造に入ってしまうのだろう?」

と考えるようになった。

そして、自分なりに、

「粒子系」と「波動系」

という二つのイメージで整理してみた。

これは物理学そのものの説明ではない。

安全保障や人間の反応を、少し離れたところから見るための、僕なりの比喩である。

粒子系は「ぎゅっ」と戦闘態勢に入る

まず、

粒子系。

イメージは、

危険を感じた瞬間、

体の筋肉が、

ぎゅっ

と緊張する状態だ。

敵がいる。

攻撃されるかもしれない。

そう感じると、

身体は固まり、

戦闘態勢に入る。

そして、

「やられたら、やり返す」

という方向に向かう。

安全保障で言えば、

自国が圧倒的な軍事力を持つことで、他国に、

「攻撃すれば、自分も大きな被害を受ける」

と思わせる。

これが抑止力だ。

僕のイメージでは、

粒子が、

ぎゅっと圧縮されて硬くなる。

雪合戦でいえば、

まだふわふわで、当たっても痛くない雪玉ではなく、

ぎゅっと固められ、

まるで石のようになった雪玉だ。

ふわふわの雪なら、

投げられても痛くない。

だから、

「こちらから攻撃して、反撃されても大丈夫かもしれない」

となる。

しかし、

ぎゅっと固まった、

石のように硬い雪玉を相手が持っていれば、

「投げられたら危ない」

と思う。

だから、

簡単には手を出せない。

つまり粒子系は、

「圧倒的な力を持つことで、戦争を起こさせない」

という考え方だ。

しかし、

中途半端な粒子では、

相手が、

「もしかしたら勝てるかもしれない」

と考える余地が生まれる。

だから粒子系の論理では、

より強く、
より硬く、
より確実な力を持とうとする。

波動系は「ゆるっ」と力をほどこうとする

その反対が、

波動系。

こちらは、

体の筋肉を、

ゆるっ

と緩めるイメージだ。

戦闘態勢に入らない。

軍備を強くすることで平和をつくるのではなく、

対話や非暴力によって、

緊張そのものを弱めようとする。

安全保障で言えば、

こちらが軍事力を強くすれば、

相手も警戒する。

相手が警戒すれば、

さらに軍備を強くする。

だから、

「武器を持つこと自体が、恐怖の連鎖を生んでいるのではないか」

と考える。

僕がイメージするのは、

ガンジーの非暴力だ。

粒子系が、

「強くなることで戦争を防ぐ」

のであれば、

波動系は、

「力をほどくことで戦争を防ぐ」

という考え方になる。

今、日本でも世界でも「粒子系」と「波動系」がぶつかっている

今の安全保障をめぐる議論を見ると、

この二つが強くぶつかっているように見える。

粒子系の人は、

こう考える。

「もし敵が攻めてきたら、どうするの?」

「あなたの家族が殺されたら、それでも何もしないの?」

「武器を捨てたら、日本が侵略されるかもしれない」

だから、

軍備拡張に反対する人を見ると、

「お花畑だ」

「平和ボケだ」

「現実を見ていない」

と感じる。

一方で、

波動系の人は、

こう考える。

「軍備を強くするから、相手も軍備を強くするのではないか」

「こちらの恐怖が、相手の恐怖を生み出しているのではないか」

「武器を持つことそのものを見直す必要があるのではないか」

どちらも、

戦争をしたいわけではない。

どちらも、

平和を求めている。

しかし、

平和に至る方法が、

正反対なのだ。

粒子系は、

力を強くすることで平和をつくろうとする。

波動系は、

力をほどくことで平和をつくろうとする。

僕には、

今の日本や世界で、

この二つの考え方がぶつかっているように見える。

人間は「1か0か」「どっちか?」に固定されやすい

僕はここに、

もう一つ大きな問題があると思っている。

人間は、

どうしても世界を、

1か0か。

あるか、ないか。

正しいか、間違っているか。

という二つに分けて考えやすい。

半導体でいえば、

電気が流れる「1」と、

電気が流れない「0」。

人間の思考も、

それと似たように、

「結局、どっちなの?」

という二択に落とし込みやすい。

そして一度、

「これだ」

と選択し、

その選択を行動にする。

その行動が繰り返され、

習慣になり、

当たり前になっていく。

すると、

いつの間にか、

「自分はこれを選んでいる」

という感覚すら薄れていく。

そして、

ただの一つの選択肢だったものが、

「これが普通だ」

「これが常識だ」

「これが絶対に正しい」

という感覚へ変わっていく。

つまり、

選択して行動することが習慣化し、当たり前になることで、それが『絶対の正しさ』へと固定されてしまう。

すると、

粒子系の人は、

「軍事力こそ現実的だ」

と思いやすくなる。

波動系の人は、

「非暴力や対話こそ正しい」

と思いやすくなる。

そして、

自分と違う意見を持つ人を、

理解する前に、

ジャッジする。

「あいつらはお花畑だ」

「あいつらは軍国主義だ」

「現実を知らない」

「危険だ」

そうやって、

自分の正しさと、

相手の間違いを固定していく。

僕は、

この、

「自分の知っている世界こそ絶対に正しい」

という固定こそ、

争いの根っこにあるのではないかと思う。

粒子でも波動でもないポジションへ、アイデンティティを移動する

だから僕が大事だと思うのは、

粒子系になることでも、

波動系になることでもない。

粒子もない。

波動もない。

そのポジションに、

自分のアイデンティティをいったん移動してみること。

すると、

見え方が変わる。

粒子系の人を見て、

「あの人たちは軍備拡張したい危険な人だ」

ではなく、

「なぜ、この人は自己防衛のために軍事力が必要だと思うのだろう?」

と見ることができる。

一方で、

波動系の人を見ても、

「あの人たちは現実を知らない」

と切り捨てるのではなく、

「なぜ、この人は武器を持つこと自体が争いを生むと考えるのだろう?」

と見ることができる。

すると、

粒子系にも理由がある。

波動系にも理由がある。

と見えてくる。

ここで初めて、

「どちらが正しいか」

という二項対立そのものから、

少し離れてみることができる。

これを国レベルで考えるなら、

自分の国のアイデンティティを、いったん0化してみる

ということと近い。

これは、

「日本を捨てろ」

という意味ではない。

そうではなく、

いったん、日本人というポジションから離れてみる。

すると、

日本人として当たり前だと思っていた正しさ。

日本の素晴らしいところ。

改善したほうがいいところ。

そういったものが、

以前よりも客観的に見えるようになる。

そして、

その何ものにもとらわれないポジションになると、

さらに面白いことが起こる。

新しいアイデアや、双方の融合点を発見できる可能性が大きくなる。

粒子系の論理も見える。

波動系の論理も見える。

でも、

そのどちらにも固定されない。

だからこそ、

今までの粒子系や波動系の思考の枠内では、

思いもしなかったイメージや理想を、

掲げることができるようになる。

たとえば、

「軍備を強くするか」

「軍備をなくすか」

という二択だけではなく、

「人間そのものの認識構造を変えることで、平和への道を開くことはできないか」

という、

まったく別の問いを立てることもできる。

僕たちの無意識の深いところには、

「人間は結局エゴの塊だ」

「私利私欲はなくならない」

「人間がいる限り、戦争はなくならない」

という、

強い思い込みがあるのかもしれない。

そして、

その思い込みの奥には、

ある意味、

人間そのものに対する諦め

がある。

だから、

「恒久世界平和」

と聞くと、

すぐに、

「そんなの無理だ」

と思ってしまう。

でも、

もし、

その前提そのものを一度外してみたらどうだろう。

人間は変わらない。

戦争はなくならない。

エゴはなくならない。

その前提すら、

本当に絶対なのか。

そこから問い直してみる。

すると、

粒子か波動か、

軍備か非武装か、

という二択とはまったく違う、

人間の認識そのものを変えることで平和をつくる

という第三の道が、

初めて見えてくる。

「二択しかない」という固定がほどけたとき、第三の道が開ける

粒子系にも属さない。

波動系にも属さない。

粒子もない。

波動もない。

そのポジションから、

まったく新しい理想を掲げる。

すると、

多くの人は最初、

こう思う。

「そんな理想論、現実には不可能だ」

なぜなら、

人間は、

「軍備を強くするのか」

それとも、

「軍備をなくすのか」

という、

すでに知っている二択の中で考えてしまうからだ。

でも、

そのとき大切なのは、

二択のどちらかを無理に選ぶことではない。

「その二択しか選択肢がない」

と思い込んでいた固定が、

するりとほどけることだ。

すると、

今まで見えていなかった、

第三の道

が開けてくる。

粒子か、波動か。

軍備強化か、非武装か。

そのどちらかを選ばなければならない、

と思っていた認識そのものがほどけたとき、

初めて、

まったく別の角度から、新しい選択肢を見ることができる。

僕は、

そこから本当の意味での、

革命

が始まるのだと思う。

かつて、

地球が中心で、

太陽が動いているという天動説が常識だった。

しかし、

視点そのものが変わった。

そして、

天動説から地動説へ、

世界の見え方そのものが変わった。

安全保障にも、

それと同じような、

認識の革命

が必要なのではないかと思う。

『沈黙の艦隊』は「世界平和」を真正面から問う物語だった

そんなことを考えていたとき、

僕はカントの『永遠平和のために』に触れた。

そして、

ふと思った。

「このテーマ、『沈黙の艦隊』につながっているんじゃないか?」

そう思って、

僕は『沈黙の艦隊』を全巻購入した。

『沈黙の艦隊』は、

かわぐちかいじによるフィクション作品だ。

物語の中心にあるのは、

原子力潜水艦「やまと」。

しかし、

この作品は単なる潜水艦の戦闘漫画ではない。

核兵器とは何か。

核による抑止力とは何か。

国家とは何か。

軍隊とは何か。

そして、

どうすれば世界から戦争をなくすことができるのか。

そうした、

世界平和そのものを問う物語でもある。

この作品に登場する日本の首相が、

竹上登志雄総理

である。

そして、

VOYAGE229「密室の七賢」で、

竹上総理は、

とてつもなく大胆な理想を語る。

それは、

国家から軍隊を取り上げること。

しかし、

軍事力そのものを完全に消すのではない。

個々の国家は軍事力を持たず、国連のみが強大な軍事力を持つ。

という構想だ。

これは、

粒子系の、

「それぞれの国家が軍事力を強くする」

とも違う。

波動系の、

「軍備そのものをなくす」

とも違う。

国家同士が軍事力を持って対立する構造そのものを変える。

という、

まったく別の角度からの発想だ。

さらに竹上総理は、

政治家も、

国家という枠を超えて存在できるはずだと考える。

日本の政治家だから、

日本の利益だけ。

アメリカ大統領だから、

アメリカの利益だけ。

そうではなく、

人類全体の未来を考える政治家になることはできないのか。

そこまで視点を引き上げる。

しかし、

アメリカ大統領ベネットは、

そんな考えを理想論として退ける。

人間は、

そんなに甘くない。

人間は争う。

国家という現実を超えることなどできない。

そう考える。

そこで、

竹上総理は言う。

「理想を持たぬ者は政治家ではない!」

僕は、

この言葉がものすごく好きだ。

吉田松陰も「まず志を立てる」と考えた

竹上総理の言葉を読んだとき、

僕は、

吉田松陰を思い出した。

松陰は、

「志を立てて以て万事の源と為す。」

と語っている。

まず、

志を立てる。

すべては、

そこから始まる。

僕たちは、

つい逆に考える。

「現実的にできるのか」

「前例はあるのか」

「本当に可能なのか」

そして、

できそうな範囲の中から、

理想を選んでしまう。

でも、

松陰の順番は逆だ。

まず、

「自分はどこへ行きたいのか」

を決める。

そのあとで、

どうやってそこへ行くかを考える。

現実から理想を決めるのではない。

理想を決めてから、現実をそこへ近づける。

これは、

竹上総理の、

「理想を持たぬ者は政治家ではない!」

という言葉と、

同じ方向を向いているように思う。

カントも戦争だらけの現実から「永遠平和」を考えた

そして、

カントである。

1795年、

カントは『永遠平和のために』を書いた。

当時のヨーロッパは、

国家同士が争い、

戦争が繰り返されていた。

そんな世界で、

カントは、

「永遠平和」

を本気で考えた。

現実だけを見れば、

「人間は戦争をする」

「国家は自国の利益を優先する」

「だから恒久的な平和なんて無理だ」

と考える方が自然だったかもしれない。

しかし、

カントはそこで終わらなかった。

カントが考えたのは、

「人間は現実にどうしているのか」

だけではない。

「人間は、どうあるべきなのか」

だった。

現実が理想から遠いから、

理想を捨てる。

ではない。

むしろ、

現実が理想から遠いからこそ、理想が必要になる。

僕は、

ここに竹上総理、

吉田松陰、

カントをつなぐ一本の線を見る。

必要なのは「答え」よりも、新しい「目」なのかもしれない

そして、

僕が一番大事だと思っているのは、

ここだ。

必要なのは、

「粒子系が正しい」

という新しい答えでもない。

「波動系が正しい」

という新しい答えでもない。

その二つの対立を、

両方とも見ることができる『目』

を持つことだ。

粒子系の立場にも入れる。

波動系の立場にも入れる。

しかし、

そのどちらにも固定されない。

なぜ、

その人はその考えになったのか。

なぜ、

その認識になったのか。

なぜ、

その思想を、

「絶対に正しい」

と思うようになったのか。

その思考が生まれる、

もっと前までさかのぼって見る。

僕は、

昔の日本人が持っていたような、

全体を感じ取り、相手のことも自分ごとのように一つに感じるセンス

を、

勝手に、

「サムライ感覚」

と呼んでいる。

相手と自分を完全に切り離すのではなく、

場全体を感じ、

関係そのものを見て、

一段高いところから全体をとらえる感覚だ。

僕は、

このサムライ感覚と、

現代物理学の、

粒子と波動という世界の見方

を融合させた教育が、

これから必要不可欠になると思っている。

そして、

僕がそのための教育として勧めたいのが、

ネシエンス学

である。

ネシエンス学では、

すでに出来上がった思想だけを見るのではなく、

その思想が、

どのように生まれ、

どのように固定されていくのかを、

さらに手前から見る。

すると、

粒子系の人にもなれる。

波動系の人にもなれる。

そして、

そのどちらにもならないこともできる。

僕は、

そんな、

究極の柔軟性を持った人間をたくさん育てること

が、

これからの時代に必要だと思っている。

「理想を持たぬ者は政治家ではない!」

粒子か。

波動か。

軍備か。

非武装か。

その二択だけで、

未来を決める必要はない。

その対立構造そのものを、

一度外から見る。

そして、

まだ誰も見たことのない理想を描く。

最初は、

「そんなものは不可能だ」

と言われるかもしれない。

でも、

天動説から地動説へ、

人間の世界の見え方が変わったように、

認識そのものが変われば、

今は不可能に見えている未来も、

まったく違って見えるかもしれない。

その「目」を獲得したとき、

『沈黙の艦隊』の竹上総理が描いた世界も、

ただの理想論ではなく、

「なるほど、こういう道もあり得る」

と見ることができる。

吉田松陰の、

「志を立てて以て万事の源と為す。」

という言葉も、

ただの精神論ではなくなる。

そして、

カントが200年以上前に掲げた、

永遠平和

という理想も、

人間の認識そのものが変われば、

実現可能な未来として考えることができるかもしれない。

だからこそ、

僕は竹上総理のこの言葉に惹かれる。

「理想を持たぬ者は政治家ではない!」

現実に合わせて、

理想を小さくするのではない。

まず、

どんな未来にしたいのかを決める。

そして、

そこから現実を変えていく。

世界平和も、

人間の未来も、

もしかすると、

そこから始まるのではないだろうか。

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