「癒されるために問題が起きたんだ!」イエスの赦しと、138億年の因果(カルマ)を超える奇跡の瞬間

人間を愛する技術

人間関係の苦しみから、思いもよらない癒しが生まれた!

先日、同じ会社の仲間から、ものすごく感動する話を聞いた。

自分たちの会社では、ネシエンス学を活用し、人間の認識の仕組みを理解しながら、
日々の仕事や人間関係の中で実践している。

その仲間は、ある人との関係性の中で、深い悲しみや怒りを感じる出来事に直面した。

相手を大切に思い、一生懸命に関わっている。

それなのに、なかなか思いが届かない。

「なんで、こんなことになるの!?」

「こんなに一生懸命なのに!」

悲しみや怒りが積み重なり、その苦しみを会社の仲間たちに打ち明ける場面があった。

けれども、会社の仲間たちは、苦しみを打ち明けた本人も、その相手も、悪者にすることはなかった。

なぜならば、会社の教育として、

「目の前の登場人物は一切関係ない。自分が世界をどう見ているのか。その認識だけを見る」

ということを実践しているからだ。

悲しみも、怒りも、涙も、否定することなく受け止める。

そして、その奥にある、138億年の因果(カルマ)から抜け出せずに苦しんでいる、人類共通の叫びに出会っていく。

そこで、周囲の仲間たちから生まれた言葉が、

「みんなのため、人類のために、チャレンジしてくれてありがとう」

だった。

そして、この言葉を受け取った仲間に、思いもよらない癒しが起きたという。

同じ「ありがとう」なのに、なぜ癒される人と癒されない人がいるの?

自分は、この話を聞いて、ある質問をした。

「それってさ、普通の人から同じ言葉を言われても癒されるの?」

すると、

「いや、癒されないと思う」

という答えだった。

えっ!? なんで?

同じ言葉なのに、そんなに違うの?

さらに話を聞いてみると、その仲間は、日頃からネシエンス学を学び、実践している会社のメンバーだからこそ、その言葉が深く届いたと話していた。

なるほど!

単に「大変だったね」「頑張ったね」と慰めてもらったわけではないんだ。

周囲の仲間たちは、目の前の登場人物を問題にしていない。

相手が悪い、自分が悪い、という善悪の判断にとらわれることなく、
自分と他者を分け、自己否定・他者否定を繰り返してしまう人類共通の認識構造を見ている。

そして、その構造から抜け出せずに苦しんでいる人間の叫びに出会っている。

だからこそ、苦しみを共有した仲間に対して、

「みんなのため、人類のために、チャレンジしてくれてありがとう」

という感謝が生まれた。

その感謝が、本当に心の底から伝わったからこそ、癒しが起きたのだと感じた。

自分は、この話を聞いて、会社の仲間たちが日々実践しているネシエンス学の人間観に、改めて驚かされた。

こんな人間関係が生まれるんだ!

すごいな、認識技術って!

「癒されるために問題が起きたんだ」――なんて不思議な感覚なんだ!

そして、今回の話で、最も印象に残った言葉がある。

癒しを体験した仲間が、こんなことを言った。

「癒されるために問題が起きたんだ、という不思議な気持ちになった」

えっ!?

自分は、この言葉を聞いて、ものすごく驚いた。

通常、人間は問題を嫌う。

苦しいこと、悲しいこと、腹が立つこと。

そんなもの、できれば起きてほしくない。

「あの人さえ変わってくれれば!」

「こんな問題さえ起きなければ!」

そう思いやすい。

ところが、今回の仲間は、相手との問題がすべて解決したわけでもないのに、深い癒しを体験したという。

それどころか、

「癒されるために問題が起きたんだ」

という感覚にまでなってしまった。

うわ、ここか!!!!

これは、無理やりプラス思考に変えたという話じゃない。

自分も悪くないし、相手も悪者にしなくていい。

そのことが、単なる知識ではなく、心の底から腑に落ちたのだという印象を受けた。

だからこそ、相手への恨みにとらわれる必要がなくなり、問題そのものの意味が大きく変わったのではないか。

自分は、その体験を聞いて、人間の認識が変わることの凄まじさを感じた。

問題をなくしたから癒されたのではない。

問題を通して、人類共通の認識構造に出会い、誰も悪者にしない関係性の中で癒された。

そして、その本人が「癒されるために問題が起きた」と感じた。

なんてすごいことが起きたんだろう!

イエス・キリストの赦しと「無関係・無限関係」の悟り

この話を聞いて、自分の中で、イエス・キリストの言葉がつながった。

イエスは十字架につけられたとき、自分を傷つける人々について、こう祈ったと聖書に伝えられている。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

――『ルカによる福音書』23章34節

自分を十字架につける人々に対して、赦しを願う。

普通なら、憎しみや怒りが生まれてもおかしくない。

なのに、なぜ、そんなことができるのか。

さらに、イエスが母マリアに語った言葉がある。

「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。」

――『ヨハネによる福音書』2章4節

えっ!? 実の母親にそんなことを言うの!?

このイエスの言葉については、ネシエンス学を創り出したNoh Jesu氏による独自の解析であり、自分はその解釈を学び、活用している。

「無関係でありながら、無限関係」

目の前の登場人物にはとらわれない。

相手の認識によって生まれた苦しみを、自分がすべて背負う必要はない。

しかし、存在の根源では、すべてが一つにつながっている。

だからこそ、誰かを悪者にすることなく、深い愛で出会うことができる。

今回、仲間から聞いた癒しの体験に、自分はイエスの赦しと響き合うものを感じた。

相手を悪者にしない。それなのに、苦しみが癒される。

この境地に、悟りという言葉の深さを感じた。

138億年の因果(カルマ)を超える――恨みの連鎖を断ち切る人類の希望

そして、今回の体験を聞いて、自分が最も感動したのは、ここだ。

これって、戦争による恨みの連鎖を断ち切ることにもつながるんじゃないか!?

人間は傷つけられると、相手を憎む。

「自分が正しい!」

「相手が悪い!」

だから、報復する。

すると、今度は報復された側が相手を憎む。

その繰り返し。

もちろん、戦争には政治や経済、歴史など、複雑な要因がある。

しかし、人間の中にある自己否定・他者否定の認識構造が、憎しみの連鎖を強めることもある。

自分は、これを138億年の因果(カルマ)から抜け出せない人類共通の叫びとして捉えている。

ここでいう138億年の因果とは、宇宙の歴史から続く無数の条件によって成立した人間の苦しみを表す、哲学的なイメージだ。

今回、会社の仲間たちは、苦しみを聞いても、誰かを悪者にしなかった。

その奥にある人類共通の認識の問題に出会い、チャレンジに感謝した。

そして、当事者の仲間は癒された。

「癒されるために問題が起きたんだ」

すごっ!!!!

自分は、この話を聞いて、戦争を必要としない人間を育てることへの希望を感じた。

恨みを我慢して抑え込むのでもない。

「人を許しなさい」と倫理道徳で自分を説得するのでもない。

恨みを生み出している認識構造そのものに気づき、そこから自由になる。

そんな人間力が広がり、人間関係が変わり、コミュニティが変わり、社会が変わっていく。

今回、自分は仲間の体験を聞いて、そんな未来を想像せずにはいられなかった。

「癒されるために問題が起きたんだ!」

いやぁ、本当にすごい話を聞いた。

ネシエンス学を日々実践している仲間たちの関わりから、こんな癒しが生まれるんだな、と。

今日は、あまりにも感動したので、この話を語ってみました。

では、また。

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