〜なぜ宗教・哲学・科学は対立してきたのか。そして学問は融合できるのか〜
もし、人類が何千年にもわたって追い求めてきた「真理」を、1つのボールに
例えるとしたらどうでしょう。
宗教も、哲学も、科学も、数学も、芸術も、それぞれ異なる方法で、
この1つのボールを追いかけてきました。
しかし、そのボールの正体は、いまだ完全には解明されていません。
このボールはどこから来たのか。
なぜ存在するのか。
世界は、どのような構造で成り立っているのか。
人類は古代から現在に至るまで、それぞれの時代、それぞれの文化、
それぞれの学問を通して、この問いに挑み続けてきました。
私は、この「1つのボール」が、日本文化で語られる「間(ま)」や、
キリスト教で語られる「門」という表現と重なる部分があるのではないか、と考えています。
しかし、人類は時代も文化も異なりながら、それぞれの言葉で
共通する根源的な世界を表現しようとしてきたのではないでしょうか。
そしてネシエンス学は、その「まだ定義されていない世界」を構造的に理解し、
すべての学問を大統合するチャレンジ、と受け止めました。
7月18日(土)に福岡で開催されたNescience Day

学問とは、それぞれ異なる競技である
私は、学問をスポーツに例えると、とても分かりやすいと思っています。

- 哲学はゴルフ。
- 宗教はラグビー。
- 科学・物理学はサッカー。
- 数学は野球。
- 芸術はバレーボール。
競技は違います。
使う道具も違います。
プレーの方法も違います。
しかし、追いかけているものは、すべて同じ「一つのボール」です。
ここで重要なのは、どの競技にも三つの要素があることです。
一つ目は「大前提」。
何を目的とし、どのような世界観の上に立っているのか。
二つ目は「ルール」。
どのような方法で探究し、どのような行動を認めるのか。
三つ目は「勝ち・負けの基準」。
何を正しいとし、何を価値あるものとして評価するのか。
例えば、サッカーでは足でボールを扱い、ゴールを決めることが勝利です。
ラグビーでは手でボールを持つことが認められ、トライによって得点します。
ゴルフでは、できるだけ少ない打数でカップに入れることが評価されます。
つまり、それぞれの競技は、
大前提も違えば、ルールも違い、勝ち・負けの基準も違うのです。
しかし、どの競技も追いかけているものは同じ「ボール」です。
なぜ宗教・哲学・科学は対立してきたのか

宗教も、哲学も、科学も同じです。
それぞれ異なる大前提を持ち、
異なるルールで探究し、
異なる「正しさ」を持っています。
ところが人類は、自分たちの競技だけを絶対視し、他の競技を自分たちの基準で評価してきました。
ここに対立の原因があります。
例えば、科学的な基準だけで宗教を評価しようとすると、何が起こるでしょうか。
宗教がどのような大前提の上に立ち、何を目的とし、どのようなルールで探究しているのかを理解しないまま判断すると、本来見えてくるものも見えなくなります。
これは、ラグビーのルールしか知らない人が、サッカーの試合に参加するようなものです。
その人は無意識のうちに手でボールを持ち、
「何が悪いんだ?」
と言うかもしれません。
しかし、サッカーでは手を使うこと自体がルール違反です。
すると、その人はサッカーの面白さを知る前に、
「サッカーなんておかしい。」
「こんなゲームは間違っている。」
と否定してしまうでしょう。
しかし、本当に問題なのはサッカーではありません。
サッカーという競技の「大前提」「ルール」「勝ち・負けの基準」を共有していなかったことなのです。
宗教と科学。
哲学と科学。
異なる学問同士の対立も、この構造とよく似ています。
まず必要なのは、どちらが正しいかを決めることではありません。
互いの大前提・ルール・勝ち・負けの基準を理解し合うことです。
ネシエンス学が目指すもの

ネシエンス学は、新しい宗教でもありません。
新しい哲学でもありません。
新しい科学でもありません。
既存の学問を否定するものでもありません。
宗教には宗教の専門家がいます。
哲学には哲学者がいます。
科学には科学者がいます。
数学には数学者がいます。
芸術には芸術家がいます。
それぞれが、それぞれの競技を極めることは、人類にとってかけがえのない営みです。
ネシエンス学が目指しているのは、それらを一つに置き換えることではありません。
それぞれの学問が持つ、
大前提
ルール
勝ち・負けの基準
を構造的に整理し、互いを理解するための共通言語をつくることです。
そして、その奥にある「一つのボール」を探究することです。
私は、この挑戦こそが「学問の大統合」だと考えています。
正しさが、争いを生む

この構造は、学問だけの話ではありません。
私たち人間の対立も、まったく同じ構造を持っています。
ここでいう「勝ち・負けの基準」とは、言い換えれば**「何が正しいのか」という判断基準**です。
しかし、その「正しさ」は、自分一人がつくったものではありません。
私たちは、生まれ育った国や文化、宗教、教育、家庭、時代などの影響を受けながら、
「これが当たり前」「これが普通」「これが正しい」という基準を身につけています。
この共通の正しさは、人と人が意思疎通し、共同体をつくるための、とても優れた道具です。
しかし、その正しさが絶対のものとして固定されると、自分たちの正しさに
当てはまらないものは、「間違い」と判断され、やがて「敵」として認識されるようになります。
すると、人は相手を理解する前に、評価し、ジャッジし、否定してしまいます。
その結果、人と人との出会いは摩擦となり、衝突となり、争いへと発展します。
その構造が家庭や職場で起これば人間関係の対立となり、
民族や宗教、国家のレベルで起これば、戦争へと発展していくのです。
だからこそ、本当に必要なのは、自分の正しさを押し通すことではありません。
まず、お互いがどのような大前提を持ち、どのようなルールの中で生き、
どのような正しさを共有しているのかを理解することです。
その理解が生まれたとき、
「そういう世界を見ていたんだね。」
「だから、その言葉になったんだね。」
「だから、その行動だったんだね。」
という理解が生まれます。
そこには、勝ち負けはありません。
あるのは、100%の許しです。
真理の「間」は、1つのボール

もし人類が、
宗教も、
哲学も、
科学も、
数学も、
芸術も、
すべてが「一つのボール」を、それぞれ異なる方法で探究しているのだ
という認識を共有できたなら、知は対立から融合へと向かうでしょう。
私は、その一つのボールこそ、人類が古代から探究してきた「真理の間」であり、
文化や時代によって異なる言葉で表現されてきた根源なのではないか、と考えています。
ネシエンス学は、その根源を構造的に理解し、人類が積み重ねてきた
知を対話可能にする共通言語を目指す挑戦だと感じました。
学問の大統合とは、すべてを一つにすることではありません。
違いを尊重しながら、その奥にある共通の根源を理解することです。
競技を見るのではなく、ボールを見る。
相手を否定するのではなく、相手の大前提を理解する。
その視点を持つことができたとき、人類は初めて、本当の意味で
対話を始められるのではないでしょうか。
そして、その先にあるのは、
対立から対話へ。
分断から融合へ。
100%の許しを土台とした、新しい文明です。
真理の「間」は、一つのボール。
私は、そのボールを探究する旅に、多くの人と共に歩んでいきたいと願っています。
最後に
最後に、ネシエンスという、人間の認知では捉えきれない世界(真理)の探究を
学問として体系化することに挑戦してきた Noh Jesu 氏に、深い敬意と感謝を捧げます。
私は、その歩みは、単なる一人の研究者の探究ではなく、人類が積み重ねてきた知を統合し、
対立から対話へ、分断から融合へと向かう新しい可能性を切り拓こうとする
壮大な挑戦だったと受け止めています。
その挑戦には、計り知れない時間と情熱、そして数え切れない困難があったことでしょう。
だからこそ、私は、この探究の道を切り拓いてくださったことに、心からの敬意を表します。
そして、この探究が、これからの日本、そして世界において、人と人、
学問と学問、文明と文明をつなぐ新たな対話の礎となることを願っています。
心より、ありがとうございます。


