私たちは、「科学的に証明された」と聞くと、それを「正しいもの」として受け止める。
科学は、観測し、仮説を立て、実験し、検証する。
その積み重ねによって、人類は自然界について膨大な知識を得てきた。
しかし、ここで一つ考えてみたい。
その「観測」をしているのは誰なのか。
人間だ。
人間は、宇宙の外側に立って、宇宙全体を眺めているわけではない。
このことを考えると、科学や物理学に対する見方が少し変わってくる。
シェルドン・リー・グラショーが示した「科学」の条件
ノーベル物理学賞を受賞したシェルドン・リー・グラショーは、ひも理論について、その数学的な美しさだけではなく、
実験や観測によって検証できるのかという点を問題にした。

グラショーにとって、物理学は、美しい理論をつくれば終わりではない。
自然について仮説を立て、それを実験や観測によって確かめる。
つまり、
観測 → 仮説 → 実験 → 検証
というプロセスが重要になる。
これは科学の大きな強みだ。
では、その最初の「観測」をしている人間自身には、限界がないのだろうか。
人間の目が直接捉えているのは、電磁波全体ではなく、その一部である可視光だ。
科学は観測装置によって、人間の感覚では捉えられない情報まで扱えるようになった。
それでも、観測し、測定し、データを解釈し、理論をつくっているのは人間である。
ここで、スティーヴン・ホーキングの言葉が重要になってくる。
「私たちは、宇宙を外側から眺める天使ではない」
ホーキングは、
「私たちは、宇宙を外側から眺める天使ではない。」
と述べている。

さらに、
「私たちも、私たちが宇宙を説明するために作ったモデルも、その宇宙の一部である。」
とも語っている。
そして、その帰結として、
「したがって、物理理論は矛盾を含むか、不完全である可能性がある。」
と述べている。
ここは、とても重要だ。
宇宙を説明する理論をつくっている人間自身が、その宇宙の中にいる。
つまり、
宇宙そのもの
と
人間が観測してつくった「宇宙についてのモデル」
は、完全に同じものではない可能性がある。
これは、「科学は間違っている」という話ではない。
科学が扱う知識にも、人間という観測者の条件が関係しているということだ。
カントが問いかけた「人間は世界をどう知るのか」
ここから哲学に目を向けてみる。
18世紀の哲学者、イマヌエル・カントは、
「人間は、世界そのものをそのまま知ることができるのか?」
という問題を考えた。

人間は、世界をそのまま受け取っているのではなく、人間の認識の条件を通して世界を経験している。
つまり、
世界そのもの → 人間の認識 → 人間が経験する世界
という構造がある。
カントの問いは、
「私たちが見ている世界は、本当に世界そのものなのか?」
という、現在にもつながる重要な問いだった。
フッサールは「その世界がどう現れているのか」を見た
そして20世紀になると、エドムント・フッサールが登場する。
フッサールは、さらに、
「では、その人間に世界は、どう現れているのか?」
と問いを深めた。

たとえば、目の前にリンゴがある。
科学なら、成分や構造を調べる。
しかしフッサールは、
「リンゴ」が人間の意識にどう現れ、どう経験され、どのような意味を持っているのか
に目を向けた。
同じ「雨」でも、
ある人には「恵みの雨」。
別の人には「嫌な雨」。
また別の人には「思い出の雨」。
同じ世界でも、人間の意識には異なる意味を持って現れる。
フッサールは、こうした**「人間にとって世界がどう現れているのか」**を探究した。
つまり、
世界そのものを研究するだけではなく、「人間にとって世界とは何なのか」を研究する。
ここに、科学とは異なる重要な視点がある。
科学も、物理学も、哲学も「部分」なのではないか?
ここまでを並べてみる。
シェルドン・リー・グラショーは、
「物理学は検証できなければならない」
という科学の条件を問いかける。
ホーキングは、
「私たちは宇宙の外側から眺める天使ではない。私たちも、私たちのモデルも宇宙の一部である」
と指摘する。
カントは、
「人間は世界そのものを、そのまま知っているわけではない」
と、人間の認識の条件を考える。
フッサールは、
「では、人間の意識には世界がどう現れ、どんな意味を持っているのか」
を探究する。
ここから、一つの問いが生まれる。
科学も、物理学も、哲学も、それぞれが世界の「ある側面」を捉えているのではないか。
科学は、自然を観測し、モデル化する。
哲学は、人間が世界をどう認識しているのかを問う。
しかし、そのどちらも、人間という存在を通して行われている。
だとすれば、
「自分たちが捉えた部分=世界全体」
と固定してしまうことには、注意が必要なのではないだろうか。
「絶対の正しさはない」
ここで言う「絶対の正しさはない」とは、
「何を言ってもいい」
という意味ではない。
科学には科学の検証方法がある。
哲学には哲学の問い方がある。
それぞれに積み重ねてきた知識がある。
大切なのは、それらを否定することではなく、
「これは、どの立場から、どの方法で、何を捉えたものなのか?」
と問い直すことだ。
科学だから絶対に正しい。
哲学だから真理である。
自分が見ているから現実である。
みんながそう思っているから事実である。
そうやって固定してしまった瞬間、私たちは「部分」を「全体」だと思い込んでしまう。
科学的万能主義からの脱却
これからの時代に必要なのは、科学を捨てることではない。
むしろ、科学をさらに活かすためにも、
科学だけを唯一の「世界の見方」だと固定しないこと
が大切なのではないだろうか。
科学も、物理学も、哲学も、人間が世界を理解するための重要な方法だ。
しかし、それぞれが捉えているものは、あくまで人間が捉えた世界の一側面かもしれない。
だからこそ、
「自分たちは、世界の何を見ているのか?」
を問い続ける。
そして、
「自分たちが見ている世界を、絶対だと固定していないか?」
を確認する。
その先に、
新しい人間理解。
新しい学び。
新しい世界の見方。
が生まれてくるのではないだろうか。
科学を否定するのではない。
哲学を絶対化するのでもない。
人間が持っている知識を、一つの視点、一つの部分情報として捉え直す。
そのうえで、
人間とは何か。
認識とは何か。
世界とは何か。
そして、真実とは何か。
を、もう一度問い直す。
私は、それがこれからの時代に必要な「科学的万能主義からの脱却」だと思う。

