「共産主義は素晴らしい!」と言ったら怒られる?

アイデンティティ教育

共産主義が目指した「平等」の、その先にあるもの

「共産主義」と聞くと、

「怖い」
「自由がない」
「独裁」
「失敗した思想」

そんなイメージを持つ人も多いのではないでしょうか。

でも、共産主義が掲げた思想を、もう一度シンプルに見てみたい。

共産主義は、貧富の差をなくし、誰もが平等に生きられる社会を実現しようとした思想です。

一部の人だけが富や権力を独占するのではなく、誰もが人間らしく生きられる社会をつくる。

その理想そのものは、決しておかしなものではありません。

では、

なぜ、平等な社会を実現しようとした思想が、実現できなかったのでしょうか?

自分は、ここに重要な問いが残っていると思っています。

それは、

「社会の制度を変えれば、人間も変わるのか?」

そして、さらに深く、

「そもそも、人間とは何なのか?」

という問いです。


① 「分配」と「所有」から見る、平等主義の矛盾

自分は、この問題を考えるとき、

「分配すること」と「所有すること」

に着眼すると、その矛盾が明確になると思っています。

例えば、学校の給食でカレーを配膳するとします。

給食係が、一人ひとりに同じようにカレーを配ろうとする。

でも、

「自分のほうが肉が少ない」

「こっちは肉が多い」

「あの人はルーが多い」

「自分はスープみたいに少ない」

ということが起こる。

どれだけ公平に分けようとしても、完全に同じ量を配ることは難しい。

では、

「給食係が配るのではなく、自分で好きなだけよそっていい」

としたらどうでしょう?

今度は、

自由にすればするほど、後から取る人の分がなくなる可能性があります。

つまり、

平等に分配しようとすると、誰かが分配を管理する必要がある。

しかし、

自由に所有・選択できるようにすると、今度は不平等が生まれる。

ここに、

「自由」と「平等」

の難しさがあります。

フランスの「人間と市民の権利の宣言」でも、自由や平等は重要な原則として掲げられました。

それから長い年月が経った現在も、

「自由でありながら、どうやって平等であるのか?」

という問いは、完全に解決されたとは言えません。

そして、ここでさらに重要になるのが、

「なぜ人間は、そもそも自分の分を確保しようとするのか?」

という問いです。

「もっと欲しい」

「自分の分を取っておきたい」

「他人に取られたくない」

という感情。

これは、単純に制度を変えれば消えるものなのでしょうか?

自分は、ここからさらに、

「人間の所有欲そのものは、どこから生まれているのか?」

という問いに進む必要があると思っています。


② なぜ人間は「所有したい」と思うのか?

なぜ人間は、

「これは自分のものだ」

と思うのでしょうか。

その前提には、

「これは自分」
「これは自分ではない」

という境界線があります。

自分の身体。

自分のお金。

自分の家。

自分の土地。

「自分」と「自分ではないもの」を分ける。

そして、

「自分ではないもの」を、自分の側に引き寄せようとする。

これが、

「もっと欲しい」
「もっと所有したい」

という欲求につながっていくのではないでしょうか。

つまり、

「足りないから、自分の外側にあるものを自分のものにしたい」

という構造です。

では、

そもそも「自分」と「世界」は、本当にそこまで完全に分離しているのでしょうか?

ここから、さらに人間そのものの認識を見ていきます。


③ 太陽も、自然も、世界も「自分」とつながっている

例えば、太陽を考えてみます。

太陽の光によって植物は光合成を行い、その過程で酸素を生み出します。

そして、自分たちはその酸素を取り込んで生きています。

つまり、

太陽 → 植物 → 酸素 → 自分

という関係があります。

目で見ると、太陽と植物と人間は別々です。

でも、本当に「関係のない存在」なのでしょうか?

太陽があり、地球があり、植物があり、空気があり、生命があり、そのつながりの中に自分が存在しています。

歴史も、文明も、他者も同じです。

一つひとつを見ると、別々に見える。

しかし、すべてが無数の関係の中で成り立っています。

さらに、ここで「見る」という行為そのものも考えてみたい。

自分たちは、世界をそのまま直接見ているのでしょうか?

光が目に入り、網膜が刺激され、神経を通って情報が処理され、人間の認識の仕組みを通して、

「赤い」
「丸い」
「物体」
「リンゴ」

という経験が成立します。

つまり、

「リンゴがあって、それを自分が見ている」

だけではなく、

「人間の認識の仕組みを通して、リンゴという世界を経験している」

とも考えられます。

哲学者カントは、こうした認識の問題について大きな転換を行いました。

一般に**「コペルニクス的転回」**と呼ばれるものです。

重要なのは、

「目に見えるから、そこに境界線がある」とは限らない

ということ。

太陽は太陽。
植物は植物。
自分は自分。

目で見ると、すべて別々です。

でも、その存在を支えている関係まで見ていくと、

すべてが自分とつながっている。

もっと深くイメージするなら、

すべてが自分の内側にある。

そういう人間観から出発することもできるのではないでしょうか。


④ 「小さな自分」から「デッカイ自分」へ

ところが現代社会では、

「この身体が自分」

という小さな個人を出発点にして、

「もっと自分を大きくしよう」

とします。

もっとお金を。

もっと成功を。

もっと評価を。

もっと所有物を。

もっと影響力を。

つまり、

小さな自分に、外側から何かを付け加えて、大きな自分になろうとする。

でも、最初の大前提が、

「自分は小さい」

なのです。

だから、

「まだ足りない」

「もっと頑張らなければ」

「もっと自分を大きくしなければ」

となる。

そして頑張って、頑張って、それでも足りない。

すると、

「やっぱり自分は大きくなれない」

と確認してしまう。

そして自己否定する。

また頑張る。

また足りない。

また自己否定する。

これが人間に不足が生まれ、そこから恐怖、不安が生まれ、最終的には争い、摩擦、衝突、戦争になる仕組みだと思っています。

だからこそ、発想を反転させる。

最初から、

「デッカイ人間だ。私は。」

というアイデンティティから始める。

宇宙も。

自然も。

太陽も。

地球も。

植物も。

空気も。

歴史も。

文明も。

他者も。

すべてが自分とつながっている。

もっと深く言えば、

すべてが自分の内側にある。

そういう人間観から出発する。

だから自分は、

「デッカイ人間だ。私は。」というアイデンティティから人生を始められるように、人間の出発点そのものを変える教育が必要になる

と思っています。


⑤ 平等と自由の、その先へ――人間観そのものを変える

ここまで考えていくと、「所有」の意味も変わってきます。

「自分の外側にあるものを、自分のものにする」

という発想は、

「自分には足りないものがある」

という認識から生まれているのではないでしょうか。

でも、

すべてが自分とつながっている。

さらに、

すべてが自分の内側にある。

という認識に立ったらどうでしょう。

足りないものがない。

すでに満たされている。

すでに充足している。

すると、

所有欲0。

そして、逆説的に、

所有∞

にもなる。

さらに、

所有0=所有∞=所有1

という境地になる。

すべてが自分とつながっているからこそ、たった一つのものを選んで所有することも楽しめる。

一つを選んでも、

「他のものを失った」

という不足感がない。

つまり、

「所有しなければ満たされない」のではなく、
「すでに満たされているから、自由に所有を選べる」。

そんな状態です。

だから自分は、

「共産主義が正しい」

とも、

「資本主義が正しい」

とも言いたいわけではありません。

共産主義が問いかけた、

「平等」

も大切。

資本主義が引き出してきた、

「自由」や「個人の創造性」

も大切。

でも、そのさらに手前にある、

「人間とは何なのか?」

という問いを、もう一度やり直す必要があるのではないでしょうか。

制度を変える。

経済システムを変える。

政治を変える。

それだけではなく、

人間そのもののイメージを変える。

「足りないから奪う」から、

「満たされているから創造する」

へ。

「所有して自分を大きくする」から、

「すでにデッカイ自分として、世界とともに創造する」

へ。

共産主義の「平等」と資本主義の「自由」。

その対立を超える鍵は、経済制度の選択だけではなく、

「人間とは何か」という認識そのものを変えることにあります。

自分は、そこから新しい時代の教育が始まると思っています。

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