自分は歴史を読み解く鍵は、この2つしかないと考えています。
歴史上の戦争から戦国時代、そして現代の政治や国際情勢に至るまで、
人類はこの二つのテーマと向き合い続けています。
NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を見ていて、自分は改めてそのことを強く感じました。
「やられる前にやる」「やられる前にやらない」のか?
戦争や争いの根源には、とてもシンプルな構造があります。
やられる前にやる。
あるいは、
やられる前にやらない。
これが戦争の基本構造です。
ここでいう「やられる前にやらない」とは、何もしないことではありません。
交渉し、対話をする。
もしくは、同盟を結び、均衡を保つ。
端的に言えば、信頼関係を築くことです。
そうした方法によって、戦争を回避することに繋がります。
しかし、その均衡が崩れた時、人は「やられる前にやる」という選択へ移動します。
相手を信じられなくなった時。
交渉が成立しなくなった時。
同盟が崩れた時。
その時、戦争は始まります。
『鎌倉殿の13人』では、鎌倉幕府を築こうとする頼朝と、その弟である義経との対立が描かれます。
義経は兄を討つ意思があったわけではありません。
しかし頼朝は、「義経が自分の地位を脅かす力を持っている」という畏怖を抱き、不信する。
そんな頼朝の不信からくる迫害により義経を抹殺しようと試みます。
そのため義経は奥州藤原氏のもとへ逃れます。
奥州藤原氏は、数代にわたって東北地方を治め、平泉を中心に独自の文化と政治を築いていました。
頼朝から見れば、義経だけが問題だったのに、
もし義経と奥州藤原氏が手を組めば、鎌倉幕府に対抗できる大きな勢力になる可能性を感じる。
将来の脅威を予測し、奥州の藤原氏をも滅ぼすような画策をします。
ここに、「やられる前にやる」という戦争の論理があります。
「全体」を優先するのか、「個人」を優先するのか?
もう一つのテーマがあります。
それは、全体を優先するのか、個人を優先するのかというテーマです。
『鎌倉殿の13人』で描かれる頼朝は、弟との関係よりも武家政権の成立を優先しました。
奥州藤原氏との信義よりも、日本全体の秩序を優先しました。
頼朝が見ていたのは個人の関係性ではなく、日本全体だったし
新しい時代の秩序でした。
だからこそ、義経との家族との情よりも国家全体の未来を選んだのです。
一見すると、頼朝が非道な卑怯者とも見られやすいですが。。
リーダーとは、嫌われる覚悟を持つ人である
ここにリーダーの本質があり、いろんな角度から検証できますが
リーダーとは、全員に好かれる人ではありません。
全体の未来のために決断できる人です。
そのためには、個人への情を超えなければならない時があります。
弟への情。
仲間への情。
友情への情。
恩義への情。
そうした人間として大切な感情を抱えながらも、全体の未来を優先しなければならない時があります。
そこには苦痛があります。
葛藤があります。
覚悟があります。
そして、嫌われる覚悟があります。
頼朝は、その覚悟を持っていたからこそ武家政権を成立させた、とも解析できます。
しかし、「全体」を選べば解決するわけではない
ここで忘れてはならないことがあります。
全体を優先すれば、すべてが解決するわけではありません。
なぜなら、全体は個人の集合体だからです。
国家も会社も共同体も、すべて個人の集まりです。
個人を軽視し、個人の声を無視すれば、不満が生まれます。
不満はやがて恨みとなり、反発となり、組織そのものを揺るがします。
つまり、全体を優先したはずなのに、その全体そのものが崩れていくのです。
だから難しい・・・
個人だけを見れば全体が崩れる。
全体だけを見れば個人が離れていく。
この矛盾から逃げることはできません。
人類は、この矛盾を解決できていない
国家も。
宗教も。
政治思想も。
経済システムも。
すべて、個人と全体をどう両立させるのかという問いへの挑戦でした。
しかし、人類はまだその答えを見つけていません。
全体を優先すれば、独裁や全体主義へ向かいます。
個人を優先すれば、分断や利己主義へ向かいます。
共産主義も。
自由主義も。
社会主義も。
資本主義も。
すべて、この矛盾への挑戦でした。
しかし、個人と全体を同時に実現すること。
自由と秩序を同時に実現すること。
それは人類史において、いまだ達成されていないテーマです。
憲法9条の議論も、この構造の中にある
この構造は鎌倉時代だけの話ではありません。
現代日本でも同じです。
例えば憲法9条の議論です。
日本は戦争をしない。
武力による解決をしない。
これは、「やられる前にやらない」という考え方です。
対話をし、外交をし、国際協調によって平和を維持しようとします。
しかし一方で、もし他国から攻撃されたらどうするのかという問いもあります。
自分の親が殺されてもいいのか。
兄弟が殺されてもいいのか。
子どもが殺されてもいいのか。
守るためには武装が必要ではないのか。
すると今度は、「やられる前にやる」という論理が出てきます。
抑止力を持つ。
軍備を持つ。
攻撃されないための力を持つ。
そう考えるようになります。
しかし武装を強化すれば、他国は警戒します。
そして他国も武装を強化します。
戦争を防ぐための武装が、戦争のリスクを高めることにもなるのです。
だからこの議論は終わりません。
その根底には、「やられる前にやる」のか、「やられる前にやらない」のかという人類共通のテーマがあるからです。
さらに一つに整理できる
ここまで見てきた二つのテーマは、さらに一つに整理できます。
それは、
不信と不安です。
相手を信じられない。
相手が何を考えているのかわからない。
いつ攻撃してくるかわからない。
だから、「やられる前にやる」という発想が生まれます。
また、自分の家族を守りたい。
自分の仲間を守りたい。
自分の国を守りたい。
そうした発想も生まれます。
その根底には、
自分と他者を分ける境界線があります。
自国と他国。
自分の家族と他人の家族。
自分たちと相手。
味方と敵。
境界線が生まれることで、不信と不安が生まれます。
そして、不信と不安が戦争を生み、対立を生み、争いを生み出していくのです。
『鎌倉殿の13人』で描かれた頼朝と義経の対立も、本質的には同じ構造です。
現代の国際政治も。
憲法9条の議論も。
世界で起きている戦争も。
根底には、不信と不安があります。
歴史とは、戦争の歴史ではありません。
国家の歴史でもありません。
境界線によって生まれる不信と不安の歴史です。
そして、人類がまだ解決できていない最大のテーマとは、個人と全体の矛盾でも、戦争と平和の矛盾でもありません。
そのさらに奥にある、
「自分と他者を分ける境界線」
なのです。

