それでもわたしは愛をする。
この言葉を聞いて、少し違和感を感じませんでしたか?
「愛を伝える」
「愛を育む」
そう表現するのが、一般的かもしれません。
けれど、「愛」という抽象的な言葉に対して、
「する」という動詞を合わせると、
「え? なんか変じゃない?」
「違和感ある…」
そう感じるのも自然なことだと思います。
わたしの中の「愛」の定義
けれど、自分の中では「愛」は“動き”なんです。
そして「する」は、
愛そのものを自然に伝え、自然に受け取り、
その存在を感じること。
そんな意味として使っています。
この定義は、いわゆる「真理」から来る感覚なので、
何を言っているのか分からない人もいるかもしれません。
けれど、自分の中では、
すべては繋がっていて、
すべては自分。
そんな感覚が、大前提にあります。
その前提から見ると、
「愛をする」という行為は、
まるで世界そのものを設定し、
演技指導までしている映画監督のような感覚にも近い。
つまり、
「それでもわたしは愛をする。」
という言葉の中には、
- 創造主としての主体性
- 自分の人生を自分で創っている感覚
- 条件を超えて愛を選ぶ意志
そんな意味も込められているんです。
イエスが伝えたかったメッセージ
自分は、イエス・キリストが好きです。

キリスト教ではないのに。笑
そう言うと怒られるかもしれませんが、
聖書を読み、イエスの大ファンになりました。
特に、心を震わせた言葉があります。
イエスがゴルゴダの丘で十字架を背負い、
周囲から罵られ、
唾を吐きかけられ、
殴られながら歩いていた時。
自分を迫害する人たちに対して、
こう言ったとされています。
「お許しください。
彼らは知らないのです。」
この言葉に、自分は全身の細胞が震えるほど感動しました。
敵を憎むのではなく、
それでも愛を向ける。
これこそ、
一貫した“愛のメッセージ”だと思っています。
その愛は、日本人の深い無意識にも眠っている
実は、この感覚。
日本人の深い無意識に眠る「慈愛」と、
どこか繋がっているように感じるんです。
驚くかもしれません。
けれど、少し考えてみてください。
1945年8月15日

日本はアメリカから原爆を2発落とされました。
その影響で亡くなった方は、
50万人を超えるとも言われています。
50万人。
それは、
青い海と白い砂浜、
スキューバダイビングの聖地として知られる
“楽園”、
モルディブ共和国
その人口規模に匹敵するとも言われています。
もし今、
ひとつの国が原爆によって壊滅し、
多くの命が一瞬で失われたら。
世界中が震撼する、
歴史的大事件になるはずです。
日本は、それを実際に受けた国なんです。
本当に、えらいことです。
それでも、日本は連鎖を止めた
その「えらいこと」をしたアメリカ。
その「えらいこと」を受けた日本。
それでも今、
日本人の中に、
「復讐しよう」
「報復しよう」
そんな空気はほとんどありません。
もちろん、
さまざまな意見はあると思います。
けれど自分は、
日本人は、器が大きい。
大きすぎる。
そう感じるんです。
原爆を落とされ、
多くの命を失っても、
それでも、
人類への愛を諦めなかった。
その無意識のメッセージが、
日本人の奥深くには眠っている気がします。
核による報復の連鎖。
その鎖を断ち切った。
それが、
1945年8月15日の
「終戦」という決断だったのではないか。
自分は、そんな風にも感じています。
だから、わたしも愛をする
だから自分も、
どんな状況でも。
どんな条件でも。
敵でも、味方でも。
それでもわたしは愛をする。
そのアイデンティティを生きる。
そして、
実践する。
そんな決断と宣言を、
ここに残したいと思います。

